少し唐突に聞こえるかもしれませんが、私たちの普段の生活圏「外」の世界に関する情報の収集において、私たちが選択できる情報源(リソース)は実は以下の3つしかありません。

  1. 国家が国民に提供する情報(行政/義務教育/メディアなど)
  2. 遺物が観察者に提供する情報(歴史/民族伝承/神話/遺跡など)
  3. 教祖が信者に提供する情報(怪しいカルト/新興宗教など)

つまり、自分の生活圏外の世界に関して知ろうとする場合、馬の骨(素性の知れない新顔)は別として、情報源として「行政」を信じるのか「歴史」を信じるのか、要はこの2択になってきます。

例えば、私たち日本人にとっての「日本の歴史」とは主に、明治以前の学者たちが江戸以前の古代中世日本についてまとめた「国学」、そして日本各地に古くから伝承されている「民話」のことです。

しかし国学に関しては1945年以降の戦後政策で、GHQと行政によって『現代的ではない』として義務教育から排除されておりますし、日本各地に伝わる民族伝承も行政によって『現実ではない』として義務教育から排除されております。

これはつまり、私たちは日本の古い歴史に関して、新しくやって来た占領軍や行政の言葉を「事実だ」として信じることにして、古参の国学や民族伝承を「事実でない」として信じないことにした、ということです。

実際に、国学や民族伝承の分野では昔の日本には「鬼神や妖怪」がいて人々を苦しめていたことが記録されていますが、確かに今は、普段の私たちの生活圏内でそのような恐ろしい様子を観察することはできません。

ゆえに私たちの大半は「自分たちの生活圏内に鬼神や妖怪はいない。行政も鬼はいないと言っている。だからこの世界に鬼など存在しない」と、このように生活圏内の観察からただ自動的に延長線を引いて、生活圏外の世界についても予測するわけです。

しかし、自分たちの生活圏内で鬼が観察できないからと言って、それは同時に生活圏外にも鬼がいないことを本当に意味するのでしょうか。行政が否定するからという理由で、明治以前の国学者たちの研究や、日本各地に残る先祖たちの民族伝承をも否定し一蹴することは果たして賢いことでしょうか。

もっとフェアに、例えば、古代人と現代人の言い分の間を取って『昔は鬼神や妖怪はいたけど、どこかのタイミングで地上からいなくなった』などといった妥協案に検討の余地はありませんか。

鬼神や妖怪にまつわる「遺物」が日本や世界中に溢れているなら尚更でしょう。