2. 親への深い理解が宗教2世問題を攻略するカギ

このセクションでは「」という存在に関して普段は考えない深いレイヤーにまで潜って考えていこうと思います。

さて本題です。

  • 親になる
  • 親である

果たして、これらはいったい何事を意味するのでしょうか?

なんか壮大なテーマへと足を踏み入れてしまった気がしますが、前述の通り宗教2世問題が2世の問題である以上このテーマを避けることはできません。

しかし、このテーマはあまりにも壮大です。

ですから、私はあえて3つの挑発的な命題を提示し、それら3つの命題を検討していくアプローチを取ろうと思います。

これは私たちの旅路が冗長でつまらなくなることを避けるためです。

普段の私ならこのような挑発的な話はしないのですが、あなたの脳が退屈しないようにとの思惑も込めて、今回はあえて刺激的な話運びをしていくことをお許し下さいね。

親とはいったい何者なのか?

命題1:親とは「子育て」を分かっていない男女である

この命題の真偽を検討するにあたり、私はただ1つの質問を投げかけたいと思います。

厚生労働省の統計によると、2022年に日本で生まれた子供の数は77万747人です。

ちなみにこの出生数は、1990年の122万1,585人からずっと減少していますので、1990年から2022年までの約30年間で、平均するとだいたい毎年100万人の赤ちゃんが生まれた計算になります。

これはつまり、毎年100万組の親が新たに誕生するということです。

「親」は基本的にはお父さんお母さんの2名構成ですから、毎年200万人のお父さんお母さんが誕生しているわけです。

なかなかの増加スピードですね。

では質問です。

これら膨大な数の親たちですが、果たして彼らは子育てのエキスパート、あるいは子供の養育について非常に詳しい専門家たちなのでしょうか?

どうでしょう?

残念ながら否です。

誕生した赤ちゃんがその男女にとって1人目であれば、当然ながらその男女は子育てに関しては基本的によく分かってないはずです。

仮に、生まれてきた赤ちゃんがその男女にとって2人目であったとしても事情はさほど変わりません。

だってそうでしょう。

新しく生まれたその2人目の子供は、1人目とまったく同じ性格、まったく同じ人格をもつ同一人物なのでしょうか?

いいえ。2人目は1人目とはまったく違う人格を持つ、まったく別の人間のはずです。

つまり、例え2人目であってもその子はその親にとっては初めての子育てであり、それは3人目、4人目と続いてもずっと変わらない事実なのです。

私の知り合いの親御さんたちも2人目3人目と育てているのになお次のように口を揃えます「子育てはとても難しい」「子育ては毎回ぜんぜん違う」と。

さらに、若さの問題もあります。

つまり、親となる男女は大抵の場合「若者」なのです。

女性は出産年齢のこともありますので、恐らく親になる男女は20代前半、よくて20代後半が多くなるわけです。

20代の男女と言えば、お世辞にも人生経験が豊富だとは言い難い。

つまり、私は何が言いたいのか。

基本的に私たちはみな、子育てをよく分かってない若者たち、子供の養育に詳しくないド素人たちに育てられたのだということです。

それら子育てを分かってない若者たちが右も左も分からないまま子の成長に干渉すること、多くの場合これが世間一般で言われる「子育て」の実態です。

感情を抜きに考えればこれはシンプルに事実でしょう。

命題2:親とは子に対して圧倒的に優位な権力者である

私たちの日本社会には実に多くの美しい幻想が溢れています。そして、そのような幻想は得てして美化されがちです。メディアや紙面を通じて。

例えば、

欧米諸国は日本と対等なビジネスパートナーであるとか、日本社会に階級などなく皆すべて平等だとか、愛し合う男女の愛は永遠だとか、親と子の愛情は普遍的だとか。

こうした幻想が美化されるほど、このような夢物語が美しく描かれるほど、私たちが持つ世界に対する理想は跳ね上がり、私生活に対する期待値も跳ね上がります。

しかしながら、私たちが幼い頃から頭の中に何度も塗り重ねてきたこの美しい理想が、まさに現実のものとなって私たちの実生活に舞い降りることは滅多にはありません。

むしろ、頭の中のその美しい理想と私生活で目の前に突きつけられる悲しい現実とのギャップの大きさに苦しめられるのが関の山です。

フィクションはフィクション、現実は現実であって別物です。

さてここに、

日本社会にまかり通っている美しすぎる理想、私たちが幼い頃から何度も脳内に塗り重ねてきた1つのフィクションがあります。

そのフィクションとは、親子の愛情です。

メディアで描かれがちな親子愛

親と子の美しい愛情!
母親が子を慈しむ温かい眼差し!

これまでにどれほど親子愛をテーマにした物語が世に出たことでしょう。これまでにどれほど親子の絆をテーマにした映画が上映されたことでしょう。

しかし、メディアや紙面で描かれがちな親子愛はフィクションです。

ここで、

ある方は異議を唱えるかもしれません。「おまえは親子の愛情をフィクションだと言うのか!おまえはそれを否定するのか!」と。

いえいえ。否定はしません。

私はただ「それはフィクションだ」と言っているに過ぎません。

つまりはこう言うことです。

1枚のコインには必ず表と裏があり、仮に表しか存在しないコインがあるとすれば、そのコインはフィクションです。

では、親子関係において愛情が「表」なのであれば、その「裏」とはいったい何でしょうか?

どう思われますか?

それは権力です

親子関係における表が愛情であれば、その裏は権力です。憎しみや嫉妬ではありません。

例えば、ご自身が親から受けた子育てを思い出して下さい。

おそらくその子育てシーン1つ1つは愛情あるいは権力のどちらかに振り分けられませんか?

あるいは、あなたが現役の親であれば自分の日々の子育てを思い浮かべて下さい。

あなたの子育てシーンはほぼ全て愛情か権力かのどちらかではありませんか?

悲しいかな、

今日も日本中の親たちが自分たちの子育てにおいて愛情か権力かのコイントスをしています。

空高く放り投げられたそのコインは果たして表を出すのでしょうか、それとも裏でしょうか。

子供たちの目がそのコインの行末をじっと見守っています。お父さんとお母さんは自分に対して笑ってくれるのでしょうか、それとも、、

子供は弱者

私がここで提示したい命題は次の1点です。

つまり、親とは子に対して圧倒的に有益な庇護者になりうる反面、圧倒的に有害な権力者にもなりうるという点です。

この命題こそが、幻想も美化も抜きにした親子関係についての事実です。ゆえに、この命題こそが冷静に真として採用されるべきだと思います。

あなたはどう思われますか?

もし仮に、

ある宗教2世がこの命題を真とするならば、私が最後に提示する命題3はその人にとってより生々しい様相を呈することでしょう。

命題3:親とは子に対して「自分の世界観」を押し付ける存在である

私たちは本当の意味で世界を知りません。

なぜなら、私たちは全世界をくまなく、文字どおり隅々まで確認したことがないからです。自分の目と足を実際に使って。

  • エジプトの大ピラミッドは砂漠の真ん中にあるかもしれないし、ないかもしれない
  • ハワイの山火事は本当に発生しているかもしれないし、ただのVTRかもしれない
  • A商事の社長は本当にやり手かもしれないし、実は創業家の言いなり社長かもしれない
  • 宇宙の向こうにはエイリアンがいるのかもしれないし、実はいないのかもしれない

真相はどれでしょうか?

果たして誰が分かったものでしょうか?

私たちの人生は世界の全てを確認できるほど長くは続きませんし、私たちだって膨大なコストをかけてまで世界の調査をしたいとは思わないでしょう。

世界についての調査などはパパッと終わらせて、人生の大半の時間はもっと大切なこと、たとえば友達と遊んだり趣味に没頭したりしたいはず。

つまり、私たちは世界の実像を見たことがないのです。

私たちはただ世界に関する噂話、世界に関する断片情報をどうにか集め寄せて独自の世界観を形成しているだけに過ぎません。

ふむふむ、なるほど、世界ってこんな感じの場所なんだな、まぁ知らんけど。という具合に。

私たちは断片情報を集めて世界観を形成している

もちろん多くの方は、自分の生活圏に近い世界に関しては幾らか正しく、幾らか高い精度をもって把握していることでしょう。

少し努力すれば、自治体が開催する県議会や市議会の様子を見学できるでしょうし、近所に住んでいる議員たちに会いにいくことだって簡単なはず。

テレビを見れば、私たちの日本社会を動かすリーダーたち、中央行政に深く関わる官僚たちの生の姿を実際に確認することだってできます。

こうした断片情報を元にして、私たちは日本国に関して緩くて淡い世界観を形成しています。

このように、自分の生活圏に近い部分の世界観の形成に関してはかろうじて正しく、かろうじて真実に近いものが形成され得るでしょう。

では、

自分の生活圏から遠い世界に関してはどうでしょうか?

その世界観の形成の精度はいかほどでしょうか?

太平洋の向こう側にある同盟国アメリカに関してはいかがでしょうか。あなたが形成しているアメリカに関する世界観 (イメージ) はどれほど正確ですか?

アメリカは本当に日本の同盟国なのでしょうか。あなたはその真偽をご自身の目と耳で確認したことがありますか?

あるいは、

空の向こう側、あるいは別次元にいるという神様に関してはどうでしょうか。あなたが形成している神に関する世界観 (イメージ) はどれほど正確ですか?

神は本当にいるのでしょうか。実はいないのでしょうか。あなたはその真偽をご自身の目と耳で確認したことがありますか?

自分の世界観が正確とは限らない

人は生まれてこのかた自分の目と耳に届く膨大な量の断片情報に晒されており、その断片情報の真偽の判断を常に迫られることとなります。

そして、その中から真として採用した断片情報のみを脳内に蓄積し、その蓄積された断片情報を寄せ集めて自分なりの世界観を形成します。

ただし。その人の脳内で形成されるのは世界の真実の姿(実像)ではなくて、あくまでも世界のたぶん真実だろう姿(つまり虚像)です。

それなのに、実に多くの人々が雑な情報収集をする反面、自分が脳内で形成する世界観こそが世界の真実の姿なのだと過信してやみません。

アメリカは日本の対等な同盟国なのだ!とか、ギザの大ピラミッドは間違いなく砂漠の真ん中にあるのだ!とか、神様は絶対に存在していて、この私を選んだのだ!とかとか。

信じるのは自由ですが、そもそもそれって正確ですか?

さて、上記に挙げた主義主張の真偽は一旦わきに置くとして、

問題なのは、やはり多くの親が自分が形成する世界観こそが世界の正確な姿なのだと過信して、それを子にも押し付ける点です。

いや本来ならば、自分が持ち合わせている世界についての情報を子と共有することは親として当然であり、子にとってもそれは助かる共有でしょう。

裏山には熊が出る!とか、近所のスーパーで大特価セールがある!とか、あそこの定食屋さん美味しいから行ってごらん!とかとか。

なんてほのぼのとした世界に関する情報共有なのでしょうね。子供だって「分かった!ありがとう!」と応じるはず。

しかし一方で、大きな問題となる情報共有、子供にとってはただただ迷惑となる共有もあります。

それは誤情報の共有、親が間違って形成した世界観 (価値観) の押し付けです。

百歩譲って、親が形成し押し付けてくる世界観が正確であれば子の方も助かるでしょう。子供はその情報のお陰で人生のショートカットができます。

しかし逆に、親が形成し押し付けてくる世界観が真実とはかけ離れた誤情報、それが単なる親の勘違いであればどうでしょうか?

誤情報を押し付けられ、それを掴まされる子供はたまったもんじゃありません。

その誤情報のせいで子供は人生の遠回りを強いられるかも知れません。あるいは落とし穴に落ちて深く傷つくかも知れないのです。

そんな多大な被害が及ぶとすれば、その誤伝達の責任はいったい誰が取るのでしょうか?

宗教と切り離して「親」を考える

本章で私はごく普通の親に関する3つの命題を提起しました。

  1. 親とは「子育て」を分かっていない男女である
  2. 親とは子に対して圧倒的に優位な権力者である
  3. 親とは子に対して「自分の世界観」を押し付ける存在である

この3つの命題は宗教とは関係がない一般的な親に関する命題、ごく普通の親に関する命題です。

果たして、この3つの命題に対する真偽はいかがでしょうか?あなたはどう考えますか?

宗教2世問題を考えていく場合まずはここが出発点となります。つまり、宗教を抜きにした親の正体、ごく一般的な親の実態です。

それはそもそも子育てを分かっていない若い男女であり、そもそも高圧的な傾向があり、得てして子に対し自分の不正確な世界観 (価値観) を押し付けがちな存在なのです。

いかがでしょうか?

このように一般的な親の実態について考えてみますと、宗教2世のあなただって自分の親に関して次のように思ったはず。

「自分の親も意外と普通だな」と。

きっとそうなのです。

たぶん、あなたの親は普通だったのです。

普通の親と同じようにあなたを愛し、普通の親と同じように子育てに奮闘し、普通の親と同じように親として未熟だっただけなのです。

ただし、あなたが宗教2世であれば、あなたの親にはたった1つだけ決して普通ではない点がありました。

それはアヘンです。

あなたの親の手には「アヘン」が強く握られていたのです。

アヘンを吸引する女性と子供

いかがでしたか?

本章では「親」の実態について、あなたが深く理解できるよう努力して書いてみました。

さて次章では「子」にスポットライトを当てます。これはつまり私たち自身、宗教2世の側の分析です。

  • 子はいかにして親の影響を受けるのか
  • 子はいかいして人間として育つのか
  • 子はいかにして宗教2世となるのか

中国の春秋戦国時代の兵法書『孫子』にも次のような一文があります。

敵を知りおのれを知れば百戦あやうからず

孫子

本章では宗教2世問題の片側、つまり親に対する理解を深めました。つまり五十勝です。

次章では己、つまり私たち子に対する理解も深めますから百戦百勝が見えてきます。

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