3. 子への深い理解が宗教2世問題を攻略するカギ
宗教2世問題について考えている今、なぜこれから子育てについて語るのだろうかと私も少しばかり不思議な気持ちです。
子育てについては、これから子供を育てようとしている新米夫婦が、あるいは保育士志望の学生たちが一生懸命に勉強すべきではないのか?
なぜ私たち宗教2世がわざわざ、そして今さら子育ての領域へと踏み込むべきなのか?
このようにお感じの読者も多いはず。
この至極当然と思える問いに対しては、私も問いをもってお返し致しましょう。
どうやら、、
あなたご自身が過去に親から受けた子育てにおいて、あなたの脳内に異物が混入された可能性がありますよ?
そしてどうやら、その異物は今もあなたの脳内に残っていて、何らかの悪さをしている可能性がありますよ?
そうです。今からする子育ての話は、日本のどこかの知らない誰かの子育てについての話ではありません。
今からする子育ての話は、あなたご自身が過去に親から受けたあなたご自身の子育てに関する話です。
どうやらその時に異物の混入があったらしいのです。犯行現場はあなたの脳、そしておそらく犯人はあなたの親なのです。
では、犯行現場をずっと昔の過去へと巻き戻してみましょうか。
あなたが幼かったその過去に、どのような巧妙な犯罪があなたの脳内で行われたのでしょう。
あなたが幼かったその時期に、どのような異物があなたの脳内に混入されたのでしょう。
犯行現場には犯人の足跡が残っています。
大きな虫メガネを手に、その怪しげな足跡を辿っていきましょうか。
復習。人の世界観の形成について
前章でも詳しく説明しましたが復習も兼ねてもう一度、人の世界観の形成について、その仕組みを振り返っておきましょう。
この点は非常に大切ですから。
つまり、私たちは世界の実像を知りません。
私たちが知っているのは世界についての噂話、世界についての単なる断片情報です。
そして、そんな危うい断片情報をどうにか寄せ集めて脳内で形成するのが世界に対する漠然としたイメージ、つまり世界観です。
そして、私たちが形成する世界観には次のような特徴があります。
- 自分の生活圏に近い場所であれば正確になりがち
- 自分の生活圏から遠い場所であれば不正確になりがち
例えば、私たちの生活圏に近い「日本」についてであれば、
それは間違いなく実在するし、テレビに出てくる企業や政治家によって運営されているし、税金はしっかりと徴収されるし、住み心地がいいのか悪いのかサッパリ分からない国だ、
と言うような、まぁまぁ実像に近い世界観の形成になりそうです。
一方で、自分たちの生活圏から遠い「イギリス」についてであれば、
それは4つの国が合体したものらしく、日本では廃止された貴族制度がなお健在で、日本とは桁違いの大金持ち貴族たちが昔から権力を握っている国らしい、
と言うような、あまり自信のない世界観の形成となりそうです。
一方で、自分たちの生活圏から遥かに遠い「神の国」についてであれば、
それは目には見えないし、あるとしたら空の上か心の中にあって、別に自分の生活には関係ないし、まぁあったとしたらピカピカしててキラキラしてる場所なのかもな、
と言うような、ザツで無関心な世界観の形成となるでしょう。
さて、
上記に挙げた3つの世界観形成の例ですが、いずれにしても人間が自分の世界観を形成する、その仕組みはまったく同じです。
人は誰でも例外なく以下5つのプロセスを経て自分の「世界」を形成します。
- 自分の目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
- 収集された断片情報の「真 or 偽」を自分の頭や実体験を使って検証
- 真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
- 偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
- 真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成
こうして形成された「世界」に即して、人は自分の意義を定義し、生活上のあらゆる出来事に反応し、自分が信じる明るい未来へと向かってゆくのです。
ある人にとっては高級車の購入が自分の価値を測る世界観かもしれませんし、別の人にとってはプラモデルの制作が自分の価値を測る世界観かもしれません。
ある人にとっては職場での立場が成功を測るモノサシかもしれませんし、別の人にとっては家族からの評判がそのモノサシかもしれません。
ある人にとっては格闘技こそが自分の生きるべき世界なのであり、別の人にとってその世界とは数学界なのかもしれません。
本当に人それぞれなのです。
いずれにせよ、
私たちの人間社会が織りなすこのような多様性とは、それぞれが独自に形成してきた世界観に源を発しており、
それら個々人の世界観がエゴや好みとなって激しくぶつかり合い、あるいは混じり合って人間模様を描くのです。
この仕組みはどこの国へ行っても必ず見られる世界共通の現象、どの国民を観察しても確認できる共通項、まさに人間が持つ普遍的な特徴だと言えるでしょう。
子の「世界観」形成は親が行うもの
ここからが本題です。
上記で復習した世界観の形成についてですが、果たして、私たちは自分自身の世界観を自分ひとりで形成してきたのでしょうか。
それとも別の誰かの手が加わったのでしょうか。誰かの影響を強く受けたのでしょうか。
果たして、どうでしょう。
残念なことですが、
子の世界観の形成に限って言えば、子は自分のそれに対する主導権を持っておりません。
つまり子は自分の世界観を主体的に形成することはできず、主体的に形成するにはあまりにも弱くて無力な存在なのです。
であれば、当然ながら子の世界観の形成に対して強い主導権を握っているのはその子の親となります。残念ながら決してその子本人ではないのです。
そして子の世界観の形成はおおかた次のように進みます。
- 親の目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
- 収集された断片情報の「真 or 偽」を親の頭や実体験を使って検証
- 親により真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
- 親により偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
- 親により真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成
そうです。
子の世界観の形成は基本的に、子ではなく親が行うものなのです。
そして親によって形成された世界観はその子の世界の土台となり、修正されない限りずっと、その人の思考と言動に強い影響を与え続けるものとなるのです。
真偽がごちゃ混ぜ状態に
宗教2世界隈を長いこと観察しておりますと、たまに次のような症状に頭を抱える被害者の方々が見受けられます。
- 親の宗教を捨てたはずなのに「ハルマゲドン」が怖い
- なんとか覚醒したはずなのに「神」に見られている気がする
- 現役の頃のあの感覚がどうしても抜けない、なかなか忘れられない
現役を退いた宗教2世であれば、上記の感覚はひどく身に覚えがあるでしょう。
ある人にとっては、このような症状は単に「嫌な感覚」というよりはむしろ「トラウマ」と呼ばれる症状に近いものでしょう。
おそらく私やこの旅路と出会うまでは、その嫌な感覚あるいはトラウマの正体が具体的には分からなかったのではないでしょうか。
なんとなく分かっていても言語化できない、その正体を暴くことができない、そんなもどかしい気持ちだったのではないでしょうか。
しかし今のあなたならきっとその正体を言語化できるはず。
そうです。
子供の頃に親によって形成された世界観、つまり、幼少期に自分の脳内に混入された誤情報が違和感の原因かもしれないのです。
子の世界観の形成は子ではなく親が行うという子育ての宿命は、なにも宗教に限った話ではありません。
ごく普通の一般家庭でも同じです。
ごく普通の一般家庭においても、やはり子の世界観を形成するのはその親であり、やはり子は自分の世界観を主体的に形成することができません。完全に自分の親に依存します。
いま一度、子の世界観の形成プロセスを確認してみましょう。
- 親の目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
- 収集された断片情報の「真 or 偽」を親の頭や実体験を使って検証
- 親により真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
- 親により偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
- 親により真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成
プロセス1に関して言えば、
子が育つ環境を整えるのはその親であり、子は自分の親が用意してくれた環境と情報に囲まれて育ちます。
厳格なユダヤ教の家庭に生まれた子であれば、一定の年齢を過ぎるまで世俗のテレビや雑誌といった情報から遮断され、むしろ聖書やラビの教えといった限定的な環境の中で育ちます。
一方でやはり、ごく普通の一般家庭に生まれた子も一定の年齢を過ぎるまでは親が選んだ絵本、親が選んだテレビ番組、そして親が選んだ家具や家電に囲まれて育ちます。
結果的に、親が選ばなかった絵本、親が選ばなかったテレビ番組や家具家電からは遮断された家庭環境の中で育つことになるのです。
ユダヤ教家庭と一般家庭、そのどちらにおいても「子育て」において親は自分が好む情報を選択し、自分が好まない情報は遮断し、子はその中で育つわけです。
確かに子は自分の目で見、自分の耳で聞きはするでしょうが、その子が自分で見聞きするそれら情報はしょせん親が予め子のために収集した2次情報に過ぎません。
決め手は親の方にあるのです。
プロセス2に関して言えば、
当然ながら一定の年齢に達するまで子の物事に対する思考力、識別力、判断力は未熟です。
それらは生物学的にも単純に「まだ育ってない」わけであって、ゆえに子は自分の手元に届く情報の真偽を自分自身で判断することができません。
結果、子はその真偽の判断を自分が一番信頼している、あるいはただ信頼するしかない自分の親へと完全に委ねることになります。
子供は騙されやすい。
なぜ子供は騙されやすいのか、それは子供には目の前の情報の真偽を自分で判断する頭も、サンプルも、そして実体験をもまだ十分に持ち合わせていないからです。
そして未熟な子を悪意ある敵たち、そして危険に満ちたこの世界から守ってくれるはずである存在、それこそが「親」なのです。
子ができない分、親が子に代わって世界のあらゆる情報の真偽を検証し、子が口にして大丈夫な食べ物は子に与え、子にとって毒となる食べ物は子の手から引き離す。
つまり、親が子に代わって情報の真偽を判断する。
これも宗教とは関係なく、ごく普通の一般家庭で見られる「子育て」の一環でしょう。
プロセス3、4に関して言えば、
子は物事の真偽の判断を自分の親に委ねてますから、親が真と判断すれば子も自動的にそれを真とするでしょうし、親が偽とするなら、それはその子にとっても偽となります。
つまり子供は親を信じやすい。
例えば、ママがクリスマス前夜に「サンタさんが来るからお利口さんにしようね」と言えば、その子にとって世界とは疑いもなくサンタさんがプレゼントをくれる素敵な場所になるわけですし、
パパが激怒して「言うこと聞かないと橋の下に捨てるぞ!」と怒鳴れば、その子はそれを真に受けて世界をまさに言うことを聞かないと捨てられる恐ろしい場所と判断してしまうのです。
身に覚えがありませんか?
このように子は、親がもたらす情報の真偽を検討すること無しに、それを世界の本質として自動的に、自分の脳内に組み込んでしまいがちなのです。
その情報の真偽の判断はもう親が済ませておりますから、子はただそれを真理として受け入れざるを得ない。
こうして子は、これがつまりプロセス5ですが、
親の独断により真とされた情報を寄せ集めて非常に偏った世界観を形成する結果となります。
思春期。子に主導権が移り始める時期
親たちはよく中学生になった子供たちのことを思春期に入ったと形容したり、厄介な反抗期が始まったなどと騒ぎ立てたりして右往左往を始めます。
あらゆる場面で使われる「思春期」という言葉ですが、思春期に対して本質的な説明がなされることは少ないように感じます。
多い説明としては、子の側の身体的な変化に注目するものであったり、やはり子の側の精神的な変化に注目するものが挙げられます。
しかし今回はもっと包括的な説明、つまり親子関係の変化に注目して説明してみましょう。
思春期(ししゅんき):
親が完全に握っていた子の世界観形成に対する主導権が、子の思考力や判断力の成長に伴って子の方に移り始める時期。
未熟だったゆえに冬眠していた子の思考力や判断力が、春が近いゆえに芽吹こうとする時期。
家庭のお茶の間でもよく見られる思春期の子とその親の激しい口論が思い浮かぶでしょうか?
親は「○○しなさい!社会とはそう言うものだ!」と子に対して自分の世界を押し付ける、
それに対して子は「その世界観は間違ってる!僕は○○したくない!」と口答えするようになる。
あるいは親が「○○を選びなさい!成功とはそう言うものだ!」と子に対して自分の価値観を押し付ける、
それに対して子は「私の世界はそうじゃない!私は○○を選びたくない!」と異議を唱えるようになる。
これらが世間でよく騒がれるところの「思春期」あるいは「反抗期」とも呼ばれるシーンのありがちな例でしょう。
しかし上で説明したように、もっと包括的に考えてみるとどうでしょう?
反抗期では別に子供だけが一方的に反抗してるわけではない。実は、親の方だって自分の子に対して頑固な反抗をしています。
しかし、子が親に対してする反抗とは成長に伴う自然な反抗、つまり自分の思考力と判断力を使って物事を見極めようとする進歩的な反抗です。
一方で、親が子に対してする反抗とは子の成長を警戒する反抗、つまり自分の考えや価値観から外れる思考や判断を抑えつけようとする保守的な反抗です。
もちろん、前述したように子の思考力や判断力はまだまだ完全な状態とは言えません。
しかしだからと言って、成長に向かう子の思考力や判断力に「反抗する」のは親としてどうなのでしょうか?
親がなすべきは、優しく丁寧にその成長をサポートする事ではありませんか?
子の反抗を親は正しくサポートする。
これが思春期の理想的な形です。
親が混入した誤情報は残る
さて、親と子の双方が織りなす反抗期の末についに子が勝利し、ようやく自分の世界観や価値観の形成に対する主導権を奪取できたとします。
長い戦いでした。
子は自分の親を言い負かすことで、あるいはただ親の前から立ち去ることで自分の足で生きていくその当然の権利を獲得したのです。
さて、
親との長い戦いの末に子はホッと胸をなで下ろし、これからは本格的に自分だけの世界を創ろうとその大きな翼を広げて意気込むことでしょう。
しかし、ちょっと待って下さい。
ここに、親との戦いの末に見落とされがちな1つの事実、しかし子にとっては決して無視すべきではない重大な事実があるのです。
その事実とは、
親が混入した誤情報が自分の頭にたくさん残っているという事実です。
一般的な親がする世界についての情報収集ならびに我が子に対する子育ては稚拙である可能性が高いでしょうから、そんな親が子の脳内に混入する誤情報の量は多くなりがちです。
親ばなれした子は、意気揚々と目の前に広がる新しい景色、目の前に広がる新しい世界へと自分の足を急がせるに違いありません。
目の前の魅力的な風景に急かされて、今すぐにでもアクセルを力一杯に踏み込みたくなるでしょう。
が、しかし。
アクセルを踏み込むその前に、自分の頭の中を点検しなくて大丈夫でしょうか?
もし仮に、あなたの親の情報収集と子育てが実際に稚拙であったとすれば、
あなたの脳内は親が混入した真偽でごちゃ混ぜ状態となっており、そんな「脳内ミックスベジタブル」はあなたにひどく混乱した世界を見せることとなります。
そんな危うい状態でアクセルを力一杯に踏み込んだとして、新しい旅路は果たして安全で快適なものとなるでしょうか?
そして、あなたは、、
今までに自分の「頭の中」をじっくりと点検したことがありますか?
なにが世界に関する「真実」で、なにが親によって混入された「誤情報」なのかを。
誤情報の解雇は高コストで難しい
幼少期に親があなたに届ける世界についての誤情報ですが、仮にその誤情報を親が真として採用すれば自動的に子であるあなたの脳内に組み込まれることとなります。
そして、その誤情報は自動的にあなたの世界観の土台として固定され、修正されない限りずっとあなたの世界観や価値観に影響を及ぼし続けます。
ごく普通の親がその子に混入する世界についての誤情報はさほどぶっ飛んだものとはならないでしょう。例えば、以下のような誤情報が挙げられます。
- いじめられても学校に行きなさい。これが普通だ
- いい大学に行っていい職に就きなさい。これが成功だ
- 就職したら歯を食いしばって働きなさい。これが人生だ
確かに、状況によっては深刻な弊害を及ぼす誤情報だと言えます。
しかし宗教をかじる親がその子に混入する世界についての誤情報は上の比ではありません。例えば、以下のような非常にぶっ飛んだ誤情報が代表的です。
- 私たちの教団は神に選ばれた絶対に正しい教団だ。教団に従うべき
- 教団を捨てる人間は将来、神によって滅ぼされる。教団に従うべき
こういった情報は非常にぶっ飛んだものですから、こんな情報を混入される子の世界観は非常にぶっ飛んだものとなり、その後の長い人生にわたって多くの弊害を引き起こしがちです。
- 親の宗教を捨てたはずなのに「教わった教え」が怖い
- なんとか覚醒したはずなのに「教団の教え」が頭から離れない
- 現役の頃のあの感覚がどうしても抜けない、忘れられない
これらは全て、幼少期に親によって混入された誤情報が十分に修正されることなく、大人となった今もなおその人の世界観の中で「正社員」であり続けている結果なのです。
さて、親によるぶっ飛んだ誤情報の混入が非常に厄介である大きな理由として、その異物混入の非対称な性質が挙げられます。
つまり親が勝手に正社員として採用した誤情報を、子は後日、簡単にクビにできないのです。
あるいは、その情報の真偽を自分で再検討しようにも、その情報があまりにも世界の果て、普段の生活圏から非常に遠い部分を扱っているがために、その再検討が非常に困難なのです。
- 私たちの教団は神に選ばれた絶対に正しい教団だ
- 教団を捨てる人間は将来、神によって滅ぼされる
普段の生活圏外にあるこれらぶっ飛んだ情報の真偽を、一体どうやって、一体なにをもって再検討すれば良いのでしょうか?
これらはあまりにも世界の果ての話、あまりにも別次元の話なのです。
宗教をかじる親が子の世界観に混入する誤情報のこの非対称な性質はまるで、日本の童歌『とおりゃんせ』に出てくる歌詞の一説です。
通りゃんせ、通りゃんせ
通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに参ります
行きはよいよい、帰りはこわい
行くのは簡単だけど、帰ってくるのは難しい、と。
それにしても、片手で宗教をかじりながら子育てをした親は、とんでもない異物を子に残してくれたものです。
子の世界観への異物混入は非常に簡単であっけないものでした。
しかしその逆、その異物の再検証 (あるいは除去) はあまりに骨の折れる作業、あまりに高コストで困難な道となりがちです。
この理不尽な非対称性に苦しんでいる宗教2世被害者たちのいかに多いことか。
しかし、
例えこれが骨の折れる作業、困難な道のりであっても私たちは前に進まないといけません。
それは「宗教2世問題」そして「宗教」を完全攻略する糸口を掴むためです。
『通りゃんせ』の歌詞も次のように続きます。
こわいながらも
通りゃんせ、通りゃんせ
では、私たちも前へと進みましょう。
通りゃんせ、通りゃんせ。
親が敵となるケース
親による子への誤情報 (あるいは世界観) の強制によって、子がその後の人生で大きな被害を被る場合、温かいはずの親子関係が急激に悪化するケースがあります。
場合によっては冷酷な敵対関係にまで様変わりするケースもあるでしょう。
当然ながら子も親と同様に人間です。
ですから親からの理不尽な加害が続けば、当然ながら子は怒ります。
さらにその加害が重度かつ長期に渡るとすれば、子の怒りだって積もるに積もるでしょう。
暴力といった肉体的な加害であれ、誤情報の強制といった詐欺的な加害であれ、それによって子が大きな被害を被るとすれば親は加害者となり子は被害者となります。
そして被害者の損失を補填するため、私たちの日本社会には法があるのです。
法(ほう):
Wikipedia
国家の強制力を伴う社会規範。
法の主要な役割の1つは「度が過ぎた加害から被害者を守る」ことでしょう。
であれば法によって子は、親からの度が過ぎた加害から守られるべきではありませんか?
そして過去に親から受けた過大な被害は、それ相応の代価で償われるべきではありませんか?
この「公正さ」の追求は、それが親子間であろうと、いいえ親子間だからこそ守られ追求されるべき人間社会の礎石だと言えるでしょう。
ゆえに、知らなかったのだ!悪意はなかったのだ!では済まされない子に対する加害はどうにかして埋め合わされるべきでしょう。肉体的な加害であれ、詐欺的な加害であれ。
これは宗教パワハラにも当てはまります。
- 過去に親から宗教パワハラを受けた
- 親のあのパワハラは度が過ぎて大きかった
- ぜひ被害の埋め合わせや償いをして欲しい
もしあなたが上記のようにお感じなら、やはりその過大な被害は何らかの代償で確実に埋め合わされるべきであり、このフェアネスの確立こそが問題解決のカギなのです。
このフェアネスの確立なしには被害者の頭と気持ちの整理だって叶わないでしょうから。
ではいかにして、そのフェアネスを確立いたしましょうか?