5. 宗教への深い理解が宗教2世問題を攻略するカギ

私との長かった旅路もこの章で終着駅です。

お疲れ様でした。

最後の章では長らく舞台袖に引っ込めておいた「宗教」に今一度ご登場を願い、私たちの熱いスポットライトを浴びせることと致しましょう。

しかしご安心ください。

あなたの頭は宗教を攻略するための準備をすでに終えております。私が宗教をしばしの間、舞台袖へと引っ込めておいたのはそのためでした。

今はもう、あなたの頭は準備万端なはず。

では攻略していきましょうか、宗教を。

宗教の正体

宗教の正体、それは私たちの普段の生活圏から遥かに遠い場所に関して形成される「世界観」のことです。

思い出して下さい。

私たちは「世界の実像」を知りません。

私たちが知っているのは「世界」についての噂話です。私たちは世界についての断片情報を寄せ集めて、どうにか世界観を形成しているに過ぎません。

こうして私たちは、それぞれが独自に形成した世界観を便宜上「世界」と呼んで日々の生活を営んでいます。

そして、自分たちの生活圏に近い世界観の形成は精度が高く正解に近いものになりがちで、自分たちの生活圏から遠い部分の世界観の形成は雑で間違ったものになりがちでした。

例えば、私たちの生活圏に近い日本 (自治体) に関してであれば、少し努力して正確な情報収集に努めれば、割と正解に近い世界観が形成できそうです。

『県の収支が赤字らしいから知事は民間の火力発電を誘致したらしい。県民税は安くなるかもしれないが周辺環境が心配だ』みたいに。

一方で、

私たちの生活圏から遠いイギリスについて正確な世界観を形成しようとするなら、その情報収集から膨大なコストと時間が強いられるに違いありません。

そんなコストをかけるのが面倒なので、多くの人はメディアの報道だとか、あるいは海外旅行から帰ってきた知人の噂話などを参考にしてイギリスに関する世界観を雑に形成します。

『イギリスの一般家庭はみんな王室のゴシップが好きらしい。知らんけど』みたいな。

そして宗教ですが、

これはイギリスよりも距離的にずっと遠い領域に関する世界観の形成となります。

『お空の上には神様がいて私たちを見守っている』とか『その昔、大国主がこの日本を作った』とか『神様からあの人にお告げがあった』とかとか。

このように、イギリスなんかよりずっと遠い場所、普段の生活圏から遥かに遠い領域に関する世界観をあえて形成すること、これが宗教です。

遠い領域 (宗教) について考える男性

宗教しゅうきょう
一般人の普段の生活圏からはるかに遠い領域について形成される世界観。遥か遠い場所に関する情報の集合。

遠い領域を知りたがる人たち

世間には本当に色々な性格の人がいます。

控え目な性格の人もいれば、大胆な性格の人もいるでしょう。慎重な性格の人もいれば、せっかちな人だって多いでしょう。

そして、遠い領域に対して慎重に考える人もいれば、遠い領域に対して結論を急ぎたがる人だって多いのです。

人の好奇心は非常に強く、それを止めることは誰にもできません。

人間はその昔、神から禁じられた実を食べてしまいましたし、子供も親から禁じられたお菓子の箱をついつい開けてしまいがちです。

別に好奇心が悪いわけではありません。

私たちが海の向こう側の世界について知りたがるのは自然ですし、一部の人が別の次元や未知の領域について結論を急ぐのも実に人間らしいことです。

しかしそんな早計が、単なる勘違いに繋がるケースが多々あります。

早計そうけい
早まった考え。十分に考えないで結論を急ぐこと。間違う可能性が高くなりがち。

早計が勘違いに繋がりやすい分野の代表格が宗教、つまり遠い領域に関する世界観形成です。

これが実に勘違いになりやすい。なぜなら宗教は非常に遠い領域に関する話を扱うからです。

人は遠い領域を夢見がち

常識的に考えて、対象となる場所の距離が遠ければ遠いほど情報収集の精度は落ち、その世界観の形成は間違いを含みがちです。

一般人にとって日本国やイギリスに関する正確な情報収集、それに対する精度の高い実態の把握ですら困難なのです。

ましてや人類の起源、あるいは神の領域といった遠い場所に関しては尚更でしょう。

しかし、実に多くの人が自分の宗教や自分の神に対して早計し、以下のように結論を急いでしまう。

  • 私は神に選ばれた特別な人間だ。聖典にそう書いてあった
  • 私たちの教団は神に選ばれた特別な教団だ。調査したらそうだった

学問では特に、難易度が高い問題に対してはより慎重に向き合うべきではないでしょうか。

ならば難易度が高い宗教、つまり遠い領域に関する情報収集とその世界観の形成に関しては、より慎重に向き合うべきでしょう。

雑で間違った結論を下してしまうよりは、むしろ結論を下さない方がずっと賢い

しかし世間には宗教に関して結論を急ぐ人が実に多い。宗教を早計する人が実に多いのです。

ほんの少しのリサーチ、ほんの短期間の調査をしただけで「私は世界を理解した!」あるいは「私は神の領域を把握した!」などと判断してしまう人が後を絶たない。

まぁその軽率な感じは人間らしいですけどね。

遠い領域について教えてくれる教団

先述の通り、自分の生活圏から遥かに遠い領域に関する世界観をあえて形成すること、これが宗教です。

そして、所在が遠くなれば遠くなるほど、その場所で実際に起きている出来事に関する実態の把握は難しくなり、その領域に関して私たちがする世界観の形成も難しくなります。

本来ならば非常に難しい「遠い場所に関する世界観の形成」にあえて挑戦し、しかもそれを率先して指導してくれるありがたい存在があります。

それが 教団 です。

世界中の宗教施設で主に行われていること、そんな宗教施設の中で教団の幹部たちが主に行なっている作業とは正にこのこと、

つまり信者たちの (遥か遠い場所に関する) 世界観の形成なのです。

具体的に彼らはどのようにして世界観の形成を行うのか?

その仕組みについてはもう第3章の親が子に対して行う世界観形成のセクションで詳しく解説ずみですね。あなたはその仕組みを知っているはず。

確認しておきましょう。人の世界観の形成は基本的に次のように進みます。

  1. 自分の目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
  2. 収集された断片情報の「真 or 偽」を自分の頭や実体験を使って検証
  3. 真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
  4. 偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
  5. 真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成

そして以下が、親が子に対して行う世界観の形成でした。

  1. 親の目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
  2. 収集された断片情報の「真 or 偽」を親の頭や実体験を使って検証
  3. 親により真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
  4. 親により偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
  5. 親により真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成

では、教団が信者たちに対して行う世界観の形成はどうでしょう?

こうです。

  1. 教団目と耳によって「世界」に関する情報の断片を収集
  2. 収集された断片情報の「真 or 偽」を教団頭や実体験を使って検証
  3. 教団により真だと判断した情報は「世界観」の形成に利用され脳内へ蓄積
  4. 教団により偽だと判断した情報は「世界観」の形成に利用されず破棄、忘却
  5. 教団により真として採用した情報のみを寄せ集めて独自の世界観を形成

例外はありません。

教団が信者たちに対して行う世界観の形成はすべて上記の流れで進みます。なぜなら、人の世界観の形成が上記の流れで進むからです。

特に信者たちに甘い幻想を見させる類の新興宗教は、上記に挙げた5段階フローを確実に踏みながら信者たちの世界観の形成を代行します。

代行だいこう
本人ができない場合などに、代わってその作業をしてあげること。

教団とはいわば、世界観形成の代行業者です。

そしてその主な代行内容が上記に挙げた5段階フローなのです。

教団に作業を外注する信者たち

どの宗教でもいいですが、

神や仏に対して自分の人生を捧げる決意をするならばそれは入信です。

しかし、

どこかの教団に対して自分の世界観形成を丸投げしてしまうなら、それは思考の外注です。部分的な思考放棄だとも言えるでしょう。

一般の人たちの中には、現役信者たちを指さして「思考停止だ」とか「洗脳されてる」などと揶揄する人がいますが、これは少し違う。

現役信者たちは別に、自分の思考を完全に停止させた訳ではありません。

そうではなくて、彼らは遠い領域に関する情報収集、そして自分たちの世界観形成を教団に外注しているだけに過ぎません。その作業が自分たちには困難かつ面倒だったので。

少し細かい指摘になりますが、

教団に入信する際、信者たちは確かに宗教に入信するのかもしれませんが、と同時に、実は教団に対しても自分たちの世界観形成の外注をしているわけです。

  1. 入信 - 神や仏に自分の人生を捧げる
  2. 外注 - 教団に世界観形成を任せる

この2つの契約が同時に交わされる。

だから多くの教団は神を信じることに加えて自分たちを信じることも同時に求めてくるわけです。神を、そして教団も信じなさいと。

少し乱暴な要求にも聞こえますが、実はこの要求は信者たちにも Win-Win です。

なにぶん、遠い領域に関する情報収集は非常に困難で面倒ですから。

だから信者たちだって自分たちの情報収集を教団に任せることができて「よかった!」、困難で面倒なその作業から解放されて「助かった!」となる。

こうして教団による信者たちの世界観形成の代行が始まるのです。

確かに周りは「思考停止だ」とか「洗脳だ」などと現役信者たちを馬鹿にするのかもしれません。

しかし初めからそのような発注内容なのですから仕方ない。

あなただって家のペンキ塗りといった面倒な作業は業者に外注しませんか?

そして外注したその後はその業者に任せきりになるでしょう?

誰だって面倒な作業は外注したい

これと同じです。

現役信者たちは遠い領域に関する実態調査をしたかった。でもその調査が非常に困難で面倒だった。だから教団にその作業を外注した。

ただこれだけの事なのです。

信頼できそうだったから

しかしまぁ、

なにゆえに現役信者たちは自分の存在意義にも深く関わってくる「世界の実態調査」という重要な作業を教団に外注したのでしょうか?

自分に届く情報次第では自分自身の存在意義が、世界が、ひいては自分の将来が絶大な影響を受けるというのに。

たぶん以下のような事情、あるいは理由があったに違いありません。

  • 人生について色々と悩んでいたから
  • 知りたい答えが普段の生活圏では見つからなかったから
  • 普段の生活圏から遠い領域にその答えがあると考えたから
  • ただ、そんな遠い場所についての情報収集や調査が困難だったから
  • そんな遠い場所の調査に関して教団が信頼できそうだったから

信者たちは「業者」と出会う前に自分ひとりで頭を抱えて悩んでいたはず。

私はなぜ生きているのか、そして死ぬのか?
神はいるのか、いないのか?
世界とは何なのか、なぜ存在するのか?
世界にはなぜ不幸が溢れているのか?
私は何者なのか?
真の幸せはどこにあるのか?

人なら誰しも人生で一度は悩んだことがあるような疑問、かつ答えが普段の生活圏の中では見つからないような難しい難問です。

世間ではこういった人生の難問を「ビッグ・クエスチョン」と言うようですが。

普段の生活圏では見つからない、ならば答えは自分が知らない遥か遠い場所のどこかにあるのかもしれない。

こう考えるのは思考の流れとして自然でしょう。そしてここで玄関の呼び鈴が鳴るのです。

『ピンポーン』

代行業者の登場です!

この代行業者のセールスポイントはおおよそ次の2点。

  1. あなたの生活圏から遠い世界に関する実態調査を致します
  2. そんな遠い世界で見つかった貴重な情報の共有を致します

あなたはこの代行業者に自分の世界についての実態調査をお願いしたいでしょうか?

残念ながら「信者たち」はこの代行業者にそれをお願いしたようです。

なぜか?

それは先述の通り、その「業者」が信頼できそうだったからです。

ではなぜ信者たちはその「業者」を信頼できると判断したのか?

その理由は大方、以下な感じだったはず。

  • 家にきた業者が優しそうで親切だったから
  • 自分の家族がこの業者を信頼しているから
  • その業者を信じる人が世界中に大勢いるから
  • その業者の上司が奇跡を起こせるらしいから
  • その業者が自分に特別な体験をさせたから
  • その業者はあの有名な聖典を分かりやすく教えてくれるから

要は、なんだっていいんです。

信頼することにした理由など。

私たちだって営業マンの笑顔が素敵だったからとか、対応が丁寧だったからとか、レビューの評判が良かったからとか、そんな些細な理由で業者を選んだりしませんか?

それと同じです。

私たちが何かのプロや専門業者に仕事をお願いするときに頭の中で考えるようなこと、それと同じようなことを信者たちも頭で考えて業者にお願いしただけなのです。

ただ、現役信者たちが業者にお願いした代行内容が非常に特殊だっただけ。

  1. 自分の生活圏から遠い領域に関する実態調査
  2. そんな遠い領域で見つかった貴重な情報の共有

宗教、特に新興宗教は全て上記で述べた原理で信者たちを獲得し、そして動いております。

だから仮に、

あなたの家に世界調査の営業マンがやって来て、あなたがその業者を信頼することにして、世界についての情報収集と自分の世界観形成をその業者に外注すれば、

あなたも立派な「信者」なのです

宗教の原理って簡単でしょ?

情報の真偽判断は業者に丸投げ

そういえば、

第4章の「自分がいた教団からの肯定」のセクションで私は次のように述べました。

多くのカルト教団の幹部たちはもともと思考放棄からキャリアをスタートしております。つまり彼らは頭が弱い。

第4章

さて、

今のあなたなら「なぜ」幹部たちの頭が弱いのか、そして「なぜ」信者たちの頭も弱いのか、その理由がハッキリと分かるはず。

そうです。

彼らは世界に関する実態調査を教団に丸投げするから、そして届く情報の真偽の判断さえも教団に丸投げするからです。

彼らは教団がくれる情報を疑わない。入信と同時に自分の頭で考えることを辞めてしまった。

人として放棄してはいけない部分を放棄し、業者に外注してしまった。

ゆえに彼らの情報収集力、そして真偽の判断力かなり弱くなってることでしょう。

使わなくなった筋肉と同じです。

だから彼らの頭は文字通り「弱い」のです。

信者たちはなかなか「立てない」

教団は「聖典」のジャンルを変更する

どの教団も決まって、自分たちの業務に正当性あるいは説得力を持たせるために世界的に有名な聖典を利用します。

あなただって自分が購入する壺とセットで立派な証明書や高級そうなお墨付きがくっついて来れば、その壺に正当性やありがたみを感じませんか?

教団も同じ考えです。

彼らは自分たちが売る「壺」の正当性を演出するため、それを買う顧客 (信者) たちの満足度を高めるために全く同じ手法を使います。

つまり自分たちの情報提供に正当性を付与するため世界的に有名な聖典を使いがちなのです。

正当性の演出のために『聖書』を使う様子
- キリスト教系の業者

キリスト教系の業者の謳い文句はおおよそ次の感じでしょう。

「我々の教団はなんと!世界的に有名なあのイエス様ご本人のお墨付きを頂いております!ご覧ください!聖書のここに書いてあります!」

なんと無茶苦茶な情報提供なのでしょうかw

しかしまぁ、

情報収集をすでに教団へと外注している信者たちの弱い頭なら割と簡単に誤魔化せるでしょうね。そういう代行契約ですから。

しかし本来、教団が信者にお届けする新しい情報と、歴史的な古文書にもともと書かれている情報との間には何の関連もありません。

月とスッポンくらい関係ない。

いくら信者たちの頭が弱いとは言え、教団がお届けする情報と聖典に書かれている情報との間に大きなギャップがある場合は正当性に疑問が出てきます。

このような場合に教団はどうするのか?

彼らは聖典のジャンルを変更するのです。

つまりその聖典を、大昔に内容が完結した歴史書ではなくて、まだまだ現代的な解説が必要な推理小説みたいにしてしまうのです。

図書館の『歴史』コーナーにあった聖書を『ミステリー』コーナーへと動かす。あるいは『宗教』の棚にあったそれを『小説』の棚へとソッと移動してしまう。

するとどうでしょうか?

その古文書はジャンルが変わってしまい、なんと特別な推理が必要なミステリー作品へと、巧妙な解説が必要な文学作品へと変身してしまうのです。

「この節は普通ならこのように読めます。しかしこの節には実はもう1つ特別な意味が隠されています!その特別な意味とは、、我々の教団が神に選ばれているということです!ドヤ!」

ジャンルさえ変えれば、

信者たちだってその聖典を特別な推理が必要なミステリー作品、あるいは巧妙な解説があって然るべき文学作品として読み進めてしまう。

聖典との内容に大きな乖離があるような教団の教義にも正当性が生まれ、その理屈が突如として通るようになる。顧客たちの満足度も維持される。

なぜなら自分たちの手元にあるこの聖典は「推理小説」なのですから。そして人間とはまた推理モノが好きな生き物なのです。

しかし『聖書』に代表される聖典や古文書とは、そもそも推理モノなのでしょうか?

聖典とは推理小説なのか?

グレーゾーン。教団はやりたい放題

聖典のジャンルを「ミステリ」へと変更できれば、その聖典はとたんに推理が必要な推理小説へ、あるいは特別な解説が必要な文学作品へとその本質が変わります

つまりその聖典に、本来ないはずのグレーゾーンが生まれるのです。

グレーゾーン
白と黒とも断定できない、あいまいな領域。

グレーゾーンが生まれると言うことは、聖典に本来ないはずの解釈の幅が生まれると言うことです。

グレーゾーンの中では白が「黒」となり、逆に黒が「白」に見えたりする。

こんな手品みたいな知覚が許される領域、それがグレーゾーンです。

信者たちも自分たちが読んでいる聖典 (推理小説) にグレーを発見するようになりますから、これが果たして白なのか、あるいは黒なのかを知りたがる。

すると教団は待ってましたとばかりに自分たちの解釈を披露する。ある場合には「これは黒です」と。しかし別の場合には「やっぱり白でした」といった具合に。

こんなアクロバティックな曲芸が許されるようになるのがグレーゾーンの特徴です。

教団の自由裁量エリアとでも言えましょう。

  1. 信者たちは教団に思考を外注している
  2. 信者たちは聖典に推理を必要としている

この2点によって教団はグレーゾーンを、自由裁量エリアを信者たちの頭の中に獲得します。

こうして信者たちは教団が作った聖典のグレーゾーンの上で踊らされることになるのです。

死ぬまで。

聖典のジャンルの選定は慎重に

それにしても、信者たちも大変ですね。

自分たちの思考の大半を教団に外注した挙句に、世界的に有名なあの聖典の本質まで、まんまと改竄されてしまったのですから。

ゆえに、

信者たちは聖典の勉強を始める前から、聖典のまさに1ページ目を開くその前から、その研究スタンスにおいて致命的なミスを犯すのです。

だってそうでしょう。

本来それは推理小説ではないのに信者たちはそれに対して推理を始めてしまうのですから。本来それに解説は必要ないのに信者たちはそれに対して解説を求めてしまうのですから。

だからそもそも「宗教」をやるときは、自分が学ぼうとしているその聖典のジャンルの確認と選定は慎重になされるべきでしょう。

その聖典には解釈の余地が許されていますか?

それとも、

その聖典は解釈の余地を禁じていますか?

聖典のジャンルの確認と選定こそが、宗教を始めようとする人が、聖典を研究しようとする人たちが真っ先に検討すべき重要事項です。

そうしないと、その人がするその宗教は、その人がするその聖典の勉強は致命的なミスの上に積り積もっていくことになるでしょう。

そしてその人の宗教歴が長くなればなるほど、間違った前提の上に間違った情報 (つまりムダ) が大きく膨らんでいく結果となるのです。

前提を間違えるとムダが蓄積される

そんな人生のムダは避けたいでしょう?

であれば聖典を開くその前に、聖典のジャンルの選定は慎重に。

教団に任せるのか?自分でやるのか?

ここまで説明すれば、もう多くを語る必要はないはず。

  • あなたは教団にこの世界の実態調査を任せたいですか?それとも自分でやりますか?
  • あなたは教団に自分の世界観形成を任せますか?それとも自分でやりますか?
  • あなたは教団に聖典の推理をお願いしますか?それとも推理はやめますか?
  • あなたは教団に思考を外注しますか?それとも自分の頭で考えますか?

以上が教団の正体、そして宗教の真髄です。

ここでつまずいてしまう宗教人は意外に多いと思います。

ゆえに私としましても、あなたが何らかの「宗教」をやる場合には思考の主体性はしっかり守ることを強くオススメ致します。

少なくとも宗教をやりたい人は最初から最後まで自分の頭で考えて下さい

自分の頭で考えない人には宗教をやる素質すらありません。そんな人は宗教のスタートラインにすら立てない。

どうしても教団を利用したいのであれば提携くらいにしておきましょう。外注ではなくて。

自分の思考の主導権は守って下さい。

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