4. フェアネスの確立が宗教2世問題を攻略するカギ – 前編
旅路は、ここで1つの山場を迎えます。
あなたが宗教2世であり、親からの加害 (宗教パワハラ) は度が過ぎていたと感じており、その被害はやはり埋め合わされるべきだと強くお感じであれば、
やはり、あなたのフェアネスは追求されるべきであり、その確立こそがあなたの過去を完全に払拭させるカギとなるでしょう。
逆を言えば、ある程度のフェアネスが確立されない限りあなたはずっと納得できず不満は残ったまま。それだけフェアネスの成立は人にとって絶対的なのです。
- みんなはクッキーを10個もらった。でも、あなたは1個だけ
- 親があなたの財布から1万円を抜き取った。でも、親は返してくれない
このような状況は誰にとっても不愉快ではないでしょうか。フェアネスが成立していないから不愉快なのです。
そして、これはそのまま宗教2世問題にも当てはまります。
今回の章ではそのフェアネスをいかに追求できるのか、それをいかに確立できるのかを深く考えます。
いかにして、あなたの人生のフェアネスは確立され得るのでしょうか?
まず、完璧なフェアネスについて
まずはシンプルに完璧なフェアネスについて考えてみましょうか。
とりあえず適当な観測点を設定して、一旦、地に足をつけてみましょう。
まずは宗教パワハラの被害者たちがその人生の若い時期に親から、そして教団から奪われがちな代表的なものを挙げてみます。
以下4点です。
- 若さと青春:
被害者たちは親と教団からプライベートにまで及ぶ厳しいルールが強制されます。加害がひどい家庭であれば世間で言う「青春」は薄く、それを楽しむ事はほぼ許されません。 - 主体性と社交性:
厳しいルールが強制されるため被害者たちの主体性は縮小します。人間関係も教団内のみと制限される傾向が強く、一般的な意味での社交性を十分に育むことができません。 - 経験値とキャリア:
教団は基本的に世間一般を全否定する教義を展開します。つまり若い信者たちは世間一般での経験値の獲得、そしてキャリア形成を全否定されがちです。 - 普通の幸せ:
若い信者たちは少なくとも上記に挙げた項目に対して大きなハンデを抱えがちです。つまり彼らは一般的な意味での「普通の幸せ」に対しても大きな遅れを抱えがちです。
以上4点です。
宗教パワハラの被害者たちが若い時期に親から、そして教団から奪われがちな代表的なものを挙げてみました。
一般人であれば上記4つは目と耳を疑う内容、しかし宗教2世の当事者であれば苦笑、いえ深い悲しみが込み上げてくる内容でしょう。
あなたが一般人なら、上記4つが消失していた場合の自分の人生について少し想像してみて下さい。
輝かしい青春も主体性も大幅に抑圧され、人間関係も厳しく制限され、経験値もキャリアも十分に伸ばせない、そんな青年期。
親と教団によって世間一般が全否定されるのです。しかし成人後に放り出される場所とはまさにその世間一般という理不尽さ。
もしあなたが一般人で、仮に上記4つに値段をつけるなら、果たしてそれぞれに幾らの値が付くことでしょう。
若さの値段は1億円でしょうか。青春の値段は3億円でしょうか。
まさか100万円ではないでしょう。
しかし、宗教パワハラの加害に苦しんだ被害者たちは、たったの100万円すらも埋め合わせてもらえない現状なのです。
この被害の深刻さ、そして理不尽さゆえに、多くの被害者たちが悲嘆の声をあげ、頭を抱えている現状。
しかし、そんな被害者たちの苦しみの声をたった一瞬で打ち消す魔法があるとすれば、それは完璧なフェアネスでしょう。
要は、綺麗そのまま返ってくればいい訳です。
- 若さと青春
- 主体性と社交性を伸ばす時間
- 経験値とキャリアを積む時間
- 普通の幸せを形成する時間
これら全てが返ってくれば被害者たちも文句ナシではないでしょうか。もしそうなれば彼らが今抱えている大きな怒り、苦しみ、痛み、悲しみだって一瞬で消えるはず。
そりゃそうです。
また1から人生をやり直せる訳ですから。
しかし、
そろそろ現実に戻る時間です。
だれもが重々承知なように、基本的には完璧なフェアネスなど期待できません。
親に奪われた大切な時間は戻ってきませんし、教団にぶち壊された青春は戻ってきません。
もちろん、被害者たちは夢を見たい訳ではありません。
ただほんの少しの償いが欲しいだけ、それによって少しでも心のざわつきを鎮めたいだけなのです。
世界がもともと不平等な場所だなんて、私たちは百も承知なのですから。
ああ、あまりに不平等な世界
少し、世界についての話をしましょうか。
私たちの中には、この非常に重要な「世界の特徴」をまだご存知でない方も多いでしょうから。ゆえに、この点については脱線するとしても触れておこうと思います。
親も、学校も説明してくれない世界の特徴。
残酷で、しかし重要な世界の性質。
つまり、そもそも、
私たちの世界とは「不平等な場所」です。
私たちが住むこの世界とはそもそも、ラッキーな誰かが「大当たり」を引くその一方で、不幸な誰かが「大ハズレ」を引いてしまうような、とても不親切で不平等な場所なのです。
- 由緒あるお金持ちの一族に生まれ、その跡取りとして特に大きな苦労もなく大切に育てられる子供がいる一方で、貧しい家庭に生まれ、さらにその親からの狂ったパワハラに苦しむ子供がいる
- なんの苦労もなしに先代から相続した不動産収入で月収300万を達成する30歳がいる一方で、汗水流しても月収10万に届かない病弱な60歳がいる
- クラスで人気者 (一軍) になって自分に大きな自信を身につける中学生もいれば、たまたまクラスメイトからイジメられて不登校となり、うつ病を発症し、閉鎖病棟に閉じ込められて人生が狂う中学生がいる
- 人生の大半をかけて懸命に築いた自分の家庭を、ほんの一瞬の大津波で失う男性もいる
- 目の前に突っ込んできたトラックに愛しい娘を轢き殺されてしまう母親だっている
なぜですか?
なぜこんなにも世界は「不平等」なのですか?
いや、
疑問を抱いても仕方ない。
もし私が上でした話を「極端だ!」と断ずる人あらば、それはただ単にその人が無知なだけ、あるいは世間知らずなだけでしょう。
あるいは単に「全体」を見たくないのか。
しかし残念ながら、私たちが住む世界の全体像とは極端を含んでいる世界なのです。
幸運と不運の両極端を含む世界、その両極端のどちらかがいつ何時、誰に降りかかってもおかしくない世界、私たちが生きている世界とはそんな酷い場所です。
この不平等な世界を分かりやすく換言するならば、確率論や統計学に出てくるベル型カーブ (正規分布) を描く世界でしょう。
大きなベル型の左端 (2.35%) では酷い不幸がごく少数の不運な人たちに降りかかり、ベル型の右端 (2.35%) では信じられない幸運がごく少数の超強運な人たちの上に舞い降りる。
そして、ベル型中央 (95%) を占めているその他大勢が可もなく不可もない平凡な毎日を送っている。正に大きなベル型カーブを描く世界。
左端と右端の両極端を含む不平等な世界こそが、私たちが住む世界の全体像です。
そして、極端かつ不平等なこの性質は実は私たちのベル型の世界にとっては非常にノーマル、つまり普通のことなのです。
だからこそ、ベル型カーブはその正式名を「正規分布(NORMAL distribution)」と言うわけで、これは別に私のこじつけではありません。
実際、このノーマルな分布は自然界のいたるところで見られます。
月の平均気温、雨粒の大きさ、日本の人口、身長と体重、IQスコア、世帯収入、サイコロが出す目、そして幸運と不運の分布。
少し客観に過ぎることを言えば、
たとえ誰かの人生に不幸が降りかかってもそれは至って正常なことであり、ベル型を描くこの不平等な世界では言ってしまえば普通のこと。騒ぎ立てるほどでもない。
あえて感情を殺して言えば、
例えリンゴが地面に向かって落ちてもそれは普通であり、同様に誰かの人生が (不運にも) 悲劇の方へと転がったとしても、やはりそれは驚きではない。むしろこの世界では普通のこと。
たまに、
自分の人生に大きな悲劇が降りかかることに対して過剰に、まるで異常事態が発生したかのようにヒステリーを起こす人がいます。
こんな酷い人生なんて知らない!私の人生にこんな酷いことが降りかかるなんて聞いてない!と。
お気持ちはよく分かります。
しかし、あえて感情を殺して言えば、私たちはそんな酷い世界に住んでおります。
私たちの世界では毎日、どこかの県の誰かの人生に対して信じられないほど残酷なことが容赦なく降りかかっているのです。
ただそんな当たり前のことをその人が今まで意識してなかっただけ。
だから仮に、自分に不幸で不運なカードが配られたとしてもヒステリーを起こす必要も、過度に自分を責める必要もないでしょう。
これが私たちの住む世界です。
世界は別に我々に対して「幸せ」も「平等」も約束しない。
約束するとすれば1つだけ、その不親切で不平等なベル型のカーブを描くことだけなのです。
自分の現在地。そして目的地へ
さて、
私はなにも宗教2世である自分たちの不幸や不遇を悲嘆するために「ベル型」の話をしたのではありません。悲嘆が目的ではない。
そうではなくて。
私たちが立っている「現在地」を知るため、自分たちの戦況を把握するためにベル型の話をしたのです。あくまでも希望へ向かうため。
だってそうでしょう。
自分たちが置かれた戦場を把握せずして果たして勝利が得られるのでしょうか。自分が置かれた戦況を直視せずして果たして正しく戦えるのでしょうか?
足を地につけて現実を見なければ掴めるものも掴めない。現実的じゃない理想にすがっていては向かえる場所にも向かえない。助け合いも叶わない。
いや勝ちたいのであれば、例えそれが不平等であっても自分の足元に広がる世界を理解すべきですし、
進むのであれば、目も当てられないほど不利な戦況が広がっていようとも前を向く必要があるのです。
そして、
私たちが人生の初期に投げ込まれた「宗教2世問題」という戦場は、明らかに私たち被害者にとっては初めから不利な戦場です。
しかし仮に、
足をしっかり地につけて、あまりにも不平等なこの世界を冷静に直視できたとして。そして異常に膨らんだ「人生への期待」なんかも捨て去ることができたとして。
仮に、
現実的じゃない理想に「さよなら」を言えて、この世界が描く残酷なベル型をしっかりと見据えた上で前へと進む準備ができたとして、
その上で私たち宗教2世問題の被害者たちが無理なく目指せる目的地、妥当な着地点とは一体どこでしょうか?
人生の最期に「自分の人生」を振り返った時、
完璧な人生じゃなかったけど、よくもまぁ、あんな酷い状況からここまで巻き返しができたよね、とちょっぴり自分を誇れるような、そんな着地点。
本当に大変だったけど、一度は本気で人生を諦めたけど、それでもまぁ自分の人生マシじゃないの、なんて青空を眺めながら呟けるそんな世界線。
そんな着地点があるとすれば、それは一体どこでしょうか?
そんな世界線があるとすれば、それは一体どの辺りでしょうか?
語弊を承知で言うなれば、
私たちは別に「成功」を目指す必要はない。
なぜなら前述の通り、そもそも私たちの世界はあまりに不平等な世界、あまりに大ハズレが多い不親切な世界だから。
そうじゃなくて、
ただ『笑顔』の方へと進んでいけばいい。
なぜなら、私たちのこの世界は笑顔になれるくらいには静かな場所、笑顔を掴むくらいにはあなたの腕は長く、その手は強いはずだから。
フェアネスを成立させるためにそれが完璧である必要はありません。ただし、そのフェアネスがあなたにとって妥当ではあるべきでしょう。
そしてその妥当なフェアネスさえ成立すれば、あなたは笑顔になれるでしょう。
笑顔。妥当なフェアネスのために
では『笑顔』の作り方をご存知ですか?
巷では様々な方法論が「笑顔の法則」や「幸せの法則」といった謳い文句と共に取り沙汰されております。
しかし宗教2世からすれば恐らく、宗教をかじった事もない一般人が解説する「笑顔の法則」なんて薄っぺらくてどこか物足りない心地がするかもしれませんね。
ということで、
ここは私が一肌脱ぎまして、そんな舌の肥えた宗教2世の方々向けの「笑顔の作り方」を解説いたしましょうか。
本物の笑顔。これこそが妥当なフェアネスを確立するための鍵となるはずですから。
今回は特に5つの項目を軸に本物の笑顔の作り方を解説します。
- 上位者(特別な存在からの肯定や承認)
- 異性(とても大きな笑顔をくれる存在)
- 蓄財 / 趣味(あなたの財産が増えていく)
- コミュニティ(同じ世界観の仲間たち)
- 投資収益率(最後の砦)
普段はあまり見慣れないキーワードもあるでしょうが順次、解説していきます。
① 上位者がくれる笑顔
人は昔から、自分より上位の存在、あるいは特別な対象から認められたり褒められたりすると笑顔になるようです。
場所や次元は違えど、例えば以下のような場合に人は笑顔になりがちでしょう。
- 敬愛する国王や皇帝から爵位を授かる
- 天皇陛下や総理大臣から勲章を賜る
- 盃を交わした親分から若頭に任命される
- 心から尊敬する上司や先輩が褒めてくれる
- 東京大学、早慶やMARCHに合格する
- 学校のテストで100点満点をとる
- 国試やケアマネ等、特別な資格をとる
下の方にいくほど一般生活でよく見られるシーンとなりますが、原理はすべて一緒であることが分かるはず。
つまり、上位の存在がくれる笑顔です。
上位者 (あるいは特別な存在) は私たちに深い満足感や肯定感を与えてくれる存在なのです。
自己肯定感は他人が上げるもの
最近、若者たちの間でもよく利用される「自己肯定感」という言葉ですが。とても便利な反面、誤解を招いている節もあるようです。
自己肯定感(じここうていかん):
自分に対する肯定的な感情。自分の存在や在り方に対して自信を持っている様子。
と言いますのは、
元々これは自己に対する肯定感という意味なのでしょうが、そうではなくて自己で上げてく肯定感みたいな印象を与えがちなのです。
「元気ないね?もっと自己肯定していこ!」みたいに。
しかし本来、自己肯定感とは自分に言い聞かせて自力で上げるものではありません。それは他人から、特に上位者から承認されるゆえに上がっていく肯定感情です。
そもそも、自分で自分を肯定することなど認識論的に言って限界があります。
例えで考えてみましょう。
たとえば、何らかの価値を測ろう (肯定しよう) とする場合、あなたは測ろうとしている対象と完全に同一のものを使うでしょうか?
Aさんの価値を測ろう (肯定しよう) とする場合に、まさにそのAさんをその横に並べたらどうなるでしょう。
Aさんの横にAさんを並べた結果、何かが分かりますか?いや、何も分かりません。
Aさんの横にAさんを並べた場合に発見できる新しい真理と言えば「それはやはりAさんだった」くらいのことでしょう。
では、どうすればAさんの価値を測れる (肯定できる) でしょうか?
簡単です。
Aさんの横に基準となる物差しを並べてあげればいいだけです。
あるいは、Aさんの横にAさんとは全く別人のBさんを、あるいはCさんを並べてあげるのも良いでしょう。
これでようやく、私たちはAさんを物差しという文脈の中で知覚できるようになり、Aさんを他と識別できるようになります。
この物差しによって生まれるコントラストを利用して「Aさんはすごい人だ!」とか「Aさんの価値は高い!」と知覚できるわけです。
本質はそれ単体では知覚できません。
本質は文脈に挟まれてこそ知覚できるようになります。半分の水が入ったコップに対する評価は状況によって変わるわけですね。
自分の価値を測る (肯定する) ときだって同じです。自分の価値を測るためにはどうしても他者が、特に上位者という文脈が必要です。
肯定感は他人から与えてもらって初めて強く知覚できるもの、説得力が強いものとなります。
いろいろな上位者
先ほどのリストでも挙げているように一括りに「上位者」と言いましても、この世界には実に様々な上位者が存在いたします。
あなたが自分の心の奥底で認めている上位者はきっと私のそれとは違うでしょうし、職場で毎日顔を合わせるあなたの上司や同僚、パートのおばさんが認めるところの上位者だって、あなたのそれとは違うはず。
では、
宗教パワハラの被害者たちに笑顔をもたらす上位者、私たちに本物の笑顔を与えてくれる特別な存在とは一体どこの何者でしょうか?
この質問に対する答えですが、これはあなたがご自身の内で形成している世界観、そして価値観によって大きく変わってくるでしょう。
どうか辺りを静かにして、自分の心の中の正直な声に耳を澄まして下さい。
あなたは誰に認められたいですか?
あなたは誰からの褒め言葉が欲しいですか?
あなたは誰から全肯定されたいですか?
宗教2世界隈の被害者たちの昨今の動きから察するに、被害者の方々は大方つぎに挙げる4者を自分の内で上位者として意識しており、
その4者すべてから、あるいはそのいずれかからの肯定や承認を欲しているようです。
- 自分の親
- 自分がいた教団
- 国家
- メディア・世間
順を追って見ていきましょう。
自分の親からの肯定
親を自分の上位者として意識している方、あるいは幼少の頃の感覚がまだ残っている方は自分の親からの肯定を強く欲しがちです。
この根強い欲求は、たとえ特別な事情のせいで親と絶縁状態にあったとしてもそう簡単に消えるわけではありません。
これはヒナの刷り込みと同じです。
ゆえに、
未だに親を自分の上位者として知覚している被害者の方々が笑顔を手にいれるためには、どうしても自分の親からの肯定が必要となります。
親からの肯定、これはつまり親からの肯定的な言葉、あるいは善意を感じる言葉といったものになるのでしょうが、
例えば以下のような肯定的な言葉を親からもらえたなら、きっと被害者の方々の傷は癒え、その禍根も解消されるのではないでしょうか。
- 私が間違っていた。あなたが正しかった。ごめんなさい
- 時間は返せないけど償いはしていきたい。許してほしい
たったこの一言。
親からのこの一言で積年の無念が晴れる被害者たちのいかに多いことでしょう。
しかし物事は複雑です。
大抵の場合、親が子を肯定できないのには以下のような事情があります。
- 親の伝達能力、コミュ力が乏しい
- 親の感情的な事情
- 親の宗教的な事情
このような場合、子は肯定が欲しいが親 (上位者) はそれを提供できない、したくないという、どん詰まり状態となります。
このままじゃ永久に被害者に笑顔は戻らないでしょう。さて、いかが致しましょうか?
しかしここに1つ、私に妙案がございます。
妙案とは、自分の親を否定することです。
別に親の人間性までも否定する必要はありません。ただ彼らの親としての資格に疑問を投げかける余地はないでしょうか?
彼らは本当に「親」だったのだろうか、と。
忘れないで下さい。
自分の親を最終的に評価するのは遥か昔から子の役目なのです。
いつの時代も子が「私の親は素晴らしかった」とか「俺の親はクズだった」と後世へと自分の親の評価を口伝えしていくものなのです。
親としての資格を満たしていなかったと子が判断するなら、それはもはや親ではないのでしょう。
医師としての資格を満たさないなら、それは医者でないのと同様です。
では「親」であることを子から否定された親は果たして何者となるのでしょうか?
ただの男女でしょう。
となれば、別にあなただって「ただの男女」からの肯定は欲しくないはず。
これで、どん詰まりは解消です。
あなたが親を親として否定すれば、あなたは別に彼らからの肯定など必要なくなるでしょう。
自分がいた教団からの肯定
未だに教団を上位者 (特別な存在) と見なしている方、あるいは現役の頃の感覚が抜けきってない方は教団からの肯定も強く欲しがちです。
教団やその幹部たちからの肯定や承認を欲して以下のように動く被害者の方々もいるようです。
- 教団の本部に抗議の手紙を書く
- 地元の幹部に除名をお願いする
- 幹部から呼び出される度に応じる
- 幹部に自分の気持ちや状況を訴える
もちろん、教団や幹部たちに対しては過去の因縁があるでしょうから「気にしなくていい」と言われても無理があるでしょう。
しかし意識しすぎる必要もないはず。
宗教パワハラの被害者の中には、未だに教団や幹部たちの言動に一喜一憂してしまう方々がいるのも事実です。
そのような方々は、教団ホームページやXアカウントで教団の動きをつい目で追ってしまい、彼らの言動を真に受けて感情が揺さぶられたりするようです。
なぜでしょうか?
それはきっと、教団や幹部たちを自分より上位の存在 (あるいは特別な存在) と認識しているからでしょう。あるいは目の敵としているか。
目の敵(めのかたき):
Oxford Languages
見るたびに、または何かにつけて憎むこと。
しかしながら、彼らは本当にあなたの敵なのでしょうか?
彼らは本当にあなたの敵に値するのですか?
個人的な意見で恐縮ですが、彼らは本質的にはスーツを着た「おままごと集団」です。
そんなおままごと集団をわざわざ「自分の敵」と見なす必要はないでしょう?
ちなみに、多くのカルト教団の幹部たちはもともと思考放棄からキャリアをスタートしております。つまり彼らは頭が弱い。
そんな頭が弱い彼らには、ままごと遊びがピッタリなのでしょうね。
まぁこの点の詳細は第5章で説明します。
国家からの肯定
国家は私たち日本国民とって一番身近で一番大きな強者と言えるでしょう。
ですから宗教パワハラの被害者たちが、そんな強大な国家からの肯定や承認を強く欲してしまうのは至極当然でしょうね。
日本国家は立法・行政・司法の3権で構成されてますから、宗教パワハラの被害者たちも主にその3分野において国家からの肯定や承認を欲しているようです。
- 法律を制定 / 改正して被害を予防したい
- 政党に訴えかけて / 新設して被害を減らしたい
- 法廷で憎き教団や親を打ち負かしたい
上記3つが叶えば、確かに宗教パワハラ被害者たちの無念は晴らされるでしょう。
その無念を晴らすために現在、多くの活動家の方々が上記3分野において宗教2世問題に取り組まれているようです。
国家からの肯定や承認が被害者たちの真の笑顔に繋がっているのであれば、私としましてもその政治的活動を心から応援する他ありません。
活動家の皆様。是非とも、宗教2世問題の被害者たちのために笑顔を勝ち獲って下さい。
メディア・世間からの肯定
日本国家が強者であるならば、メディアと世間も同じように圧倒的な力を持つ強者です。
なんであれメディアが注目すれば、そして世間が注目すれば、それは潜在的に大きな肯定や承認へと繋がっているからです。
このゆえに宗教パワハラ被害者たちもメディアや世間から注目、共感、そして肯定されることを強く欲しているようです。
- NHKで宗教2世問題が報道された!
- 新聞の一面に宗教2世問題が掲載された!
これは確かに大きなインパクトだと言えるでしょうね。
自分たちだけでは心細い。
でも、メディアや世間が味方してくれれば非常に心強い、と。
当然ながら私は宗教パワハラ被害者たちの味方ですから、被害者の方々が望むのであればNHKだろうが朝日新聞だろうが、何度でも取り上げられればいいなと思います。
あと単純に、自分が以前所属していた教団がメディアや報道で叩かれるのを見ると笑えます。
きっと現役信者たちは「やっぱり終わりが近いんだ!」と騒ぐのでしょうけど。
上位者がくれる笑顔も大切
以上、宗教パワハラ被害者たちに真の笑顔、つまり妥当なフェアネスをもたらし得る4つの上位者についての解説でした。
- 自分の親
- 自分がいた教団
- 国家
- メディア・世間
この4者からの肯定や承認は被害者の方々の真の笑顔へと繋がっておりますので、是非とも積極的に勝ち獲っていきたいものですね。
おっと上2つは除外でした、すみません。